「城をどこに建てようか。」
400年以上も昔。
新発田城を築城する溝口秀勝(みぞぐち ひでかつ)が、越後の国にやってきました。
秀勝は土地の利点を考慮して、築城の場所を選択します。
それでは早速、
- 溝口秀勝!新発田城の築城主がやってきた!
- 溝口秀勝の築城ポイント
という順で見ていこうと思います。
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溝口秀勝!新発田城の築城主がやってきた!
新発田城は、溝口秀勝(みぞぐち ひでかつ)が築城したお城です。
豊臣秀吉の家臣として手柄を立てた溝口秀勝。
その功績で、越後蒲原郡(大部分が新潟県)に六万石の領地を与えられました。
秀勝は、加賀(石川県)の大聖寺から移封してきました。
2,000人を越える家臣団と、その家族で総勢8,000人の大移動です。
加えて商人や大工、鋳物師などの職人も引き連れてきています。
さらには農民も一緒に移動してきた、という伝承も残されているんです。
移動は人だけには留まりません。
秀勝の菩提寺(ぼだいじ)である、大麟寺(だいりんじ)も移ってきています。
このお寺は、現在の宝光寺の祖となっています。
このようにして越後蒲原郡にやってきた溝口秀勝。
秀勝は新発田城を築城していくのですが、そこにはどんな戦略があったのでしょうか。
溝口秀勝の戦略
新発田城を築城した、溝口秀勝。
秀勝はこう考えました。
「戦の時代は、まもなく終わるであろう。」
もちろん、丸裸のお城では他国に狙われるので、防御は万全に行います。
しかし、戦国の世が終わりを迎えることを予想していた秀勝。
次の時代は、流通経済が大事だと考えました。
その考えにマッチしていた築城場所が新発田だったのです。
新発田という土地。
どういう点が秀勝の戦略にマッチしていたのでしょうか?
次の章で見ていくことにしましょう。
溝口秀勝の築城ポイント
加賀(石川県)の国、大聖寺からやってきた溝口秀勝。
秀勝は、領地を統括する本拠地を選ぶ必要がありました。
城の候補地は、
- 加茂(新発田藩の南部)
- 新津(新発田藩の中央部)
- 新発田(新発田藩の北部)
この3ヶ所でした。
3ヶ所のなかで秀勝が選んだ場所は、北部の新発田でした。
新発田が築城地に選ばれたポイントは3つあります。
では、溝口秀勝が着目した点について見ていきましょう。
溝口秀勝の着目点!その1
溝口秀勝が新発田に着目した点の1つ目です。
新発田は河川によって防御性を確保できる土地でした。
新発田は加地川が作った三角州の土地で、防御に優れていたのです。
さらに秀勝は、加治川から水を引き、新発田川を作りました。
この新発田川を、城を守るお堀につなげました。
また、新発田城の周りには湿地帯が多かったのです。
それは攻撃されにくい大きな要素となりました。
相手軍はぬかるみに足をとられ、自由に進むことが出来なくなるのです。
溝口秀勝の着目点!その2
秀勝が着目した点の2つ目は、交通の便の良さでした。
この点にも1つ目と同じく、河川が関係しています。
新発田は、河川や海を使いやすく、水運に便利な土地だったのです。
新発田城の周りには、加地川や南を流れる太田川、さらに南には阿賀野川が。
秀勝が自ら切り開いた新発田川を加え、川を使って米などの物資を運べます。
阿賀野川では、今でも舟下りがあるんですよ。
さらに日本海を利用すれば、他地域との交易に便利である、と考えました。
また、新発田には当時の街道の要となる場所がありました。
五十公野(いじみの)という土地です。
交通の拠点を押さえれば、領内の経済を発展させやすいですね。
溝口秀勝の着目点!その3
3つ目の着目点は、
城下町を整備しやすい
という環境です。
秀勝は、この土地を以前支配していた新発田重家が築いた城下町を発展させました。
こちらは、新発田重家の菩提寺の福勝寺です。
先に紹介した溝口秀勝の菩提寺の目と鼻の先にあるんですよ。
築城に当たって、城下町の整備は
- 城の防御性がアップ
- 領地経済の活性化
につながる重要ポイントです。
防御性については、城に続く道に曲がり角を多く作ることで
- 城が見えにくい
- 敵が進軍しづらい
という利点が生まれます。
そして、領地経済の活性化について。
藩主のお膝元の城下町が発展すれば、藩の経済の活性化につながります。
新発田城は、このような戦略によって三代目城主の宣直の1654年頃に完成した、と伝わっています。