城・歴史

天守閣の意味!それをズバリお答えします

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「天守閣って、どんな意味があるのだろう?」

「天守閣がお城にある意味は?」

そんな疑問にお答えします!

天守閣の意味を簡単に言うと、城主の権力のシンボルとなります。

シンボルとしての天守閣は、権力者たちにとって大きな意味を持っていました。

権力者達は天守閣を上手く使い、自分の力を強めていったのです。

さっそく、時代の流れと共に天守閣が持った意味を見ていきましょう。

  • 天守閣の意味!それは権力のシンボル
  • 天守閣の意味!秀吉の場合
  • 天守閣の意味!家康の場合
  • 天守閣の意味!江戸から現代

という順番でお話しします。

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天守閣の意味!それは権力のシンボル

天守閣の意味は、城主の権力を示すシンボルと言えます。

具体例でお話ししますね。

初めて天守閣が建てられた時のことです。

天守閣の意味!信長の場合

初めての本格的な天守閣を作ったのは、織田信長です。

1579年に完成した安土城の天守閣

この安土城の天守閣が、本格的な天守閣の始まりとされています。

信長にとって、この天守閣の意味は、世の中に自分の力を示すということでした。

信長は、絢爛豪華に作った天守閣を、

権力を象徴するシンボルタワー

として使いました。

信長が天守閣を作った背景

室町幕府の将軍を京都から追い出した信長は、実質上天下を取っていました。

安土城

それは、京都から追い出した足利将軍の御殿を遥かに凌ぐお城でした。

そんな安土城の象徴的な建物が、安土山の頂上にそびえ立つ天守閣だったのです。

安土城は、敵を攻略するための要塞といった意味よりも、

政治の中心地

といった意味を持つお城でもありました。

◆天守閣とお城

ちなみに、

天守閣=お城ではありません

天守閣とは、お堀などで囲まれたお城のスペースのなかに建てられた高い建物の名称です。

詳しくは、こちらの記事をごらん下さい。

天守閣とはどこの部分?ズバリこちらです!

安土城の天守閣は、本願寺の変で織田信長が倒れた後すぐ、残念ながら焼失してしまいました。

しかし、信長の作った天守閣は次の時代(豊臣、徳川)に受け継がれていきます。

それでは、安土城以後の天守閣の意味と歴史を見てみましょう。

天守閣の意味!秀吉の場合

織田信長の後、天下を手中に収めた豊臣秀吉

秀吉にとっての天守閣の意味は、

天下人が秀吉に変わった

ということを世に知らしめることでした。

さらに、秀吉は自分が仕えた主君、信長をも超えたことを印象付けるのです。

秀吉の大坂城

秀吉は、大坂城の天守閣を使って権力を誇示します。

信長の安土城を越える絢爛豪華な天守閣を大坂城に作り、有力大名たちを大坂城に招きました。

「天下を奪おうとしても無駄だよ。」

虎視眈々と秀吉の天下をひっくり返そうとしている大名たちに、自分の力を見せつけたのです。

城の外側は高価な黒漆が塗られ、金箔の瓦や彫刻が飾られています。

天守閣内部は金の襖(ふすま)や金の障壁で埋め尽くされています。

これには、いくら有力大名といえとも、

「秀吉には到底かなわない・・・。」

と屈服せざるを得なかったのです。

天守閣の意味!家康の場合

徳川家康にとっても、天守閣の意味は自身がNo.1の天下人であると見せつけるためのものになっていました。

そのため家康は、秀吉が天下を握っている間は天守閣を建てませんでした。

秀吉の天守閣を超えることを許されなかったからです。

天下を狙う家康にとって、No.1の天守閣以外は意味のないものでした。

家康の天守閣の戦略

秀吉亡き後、ついに天下を奪取した家康

家康は大名たちが大坂城を超えるような天守閣を作るのを規制しませんでした。

どうしてでしょうか?

それは、大坂城を超える立派な天守閣ができれば、豊臣家の印象が普通の大名に格下げされるからです。

実際に、池田輝政が作った姫路城の天守閣の高さは31.5m

秀吉の大坂城の30mを超えてきました。

そのなかで家康は、戦略的重要な位置である尾張の国には36.1mの天守閣を有する名古屋城を。

秀吉の大坂城は建て直して44mの天守閣

そして自身の居城となる江戸城は44.87mの天守閣を。

諸大名や豊臣家でさえも、自分よりも格下であることを見せつけたのです。

◆現存の天守閣で一番大きいのは

現存する天守閣は12ヵ所にあります。

その中での最大の高さを誇るのが姫路城で31.5m

第2位は松本城で25mです。

家康の天守閣の特徴

家康が作った天守閣は、内部は質素なもので、外見の豪華さを重視しました。

そして、豊臣家の大坂城が黒漆(うるし)の外観であったのに対し、江戸城は真っ白な外観。

「ああ、天下人が変わったのだなぁ。」

家康は、色の違い天下人が変わったことを印象付けたのです。

名古屋城の金の鯱(しゃちほこ)には、200キログラムを超える金が使われたんですよ。

天守閣の意味!江戸から現代

安定政権を得た徳川家

徳川政権が安泰になると、大名にとって天守閣の意味は希薄なものとなっていきました。

大名の格付けは、問答無用で徳川家が決めるシステムになったからです。

今更自分の強さを天守閣によって世の中にアピールする必要がなくなりました

また、諸大名たちには、徳川政権によって城作りに規制がかけられました。

そして大名たちは徳川家に目をつけられないように、派手な外観の城作りは避けるようになりました。

江戸城の天守閣

江戸城の天守閣は、惜しくも焼失してしまいます。

将軍が4代目徳川家綱の時代で、1657年のことです。

この時には幕府の体制は盤石。

天守閣はシンボルとしての意味はなく、再建されませんでした。

これ以後は、天守閣なき江戸城となったのです。

もっとも、幕末期に入ると幕府の財政は困窮。

天守閣を建て直す資金もありませんでした。

下の写真は、江戸城の天守閣があった石垣(天守台)です。

天守閣の破却から再建へ

時は流れて明治時代

古写真からは天守閣などの城の老朽化が見てとれます。

そんななか、政府主導による城の破却が行われました。

新政府が西洋建築で政治を行うことで、時代は変わりました。

加えて、その後の戦禍によって多くの天守閣が失われることに。

◆天守閣の意味~現代~

現代の私達日本人は、天守閣の意味に気づきました。

「天守閣は土地のシンボルだ」

ということです。

そして天守閣は、そこに住む人々の誇りとして再建されていくのです。

昭和以降、たくさんの天守閣が再建されました。

天守閣は今でも作られ続けています。

信長が初めて作りだした天守閣は、今の私たちの文化にも、影響を与えているのです。

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