「え!?殿が改易に・・・!?」
改易(かいえき)。
それは江戸時代の大名やその家臣たちにとって、大変厳しい通達でした。
この改易とは一体どういう事なのか、解説していこうと思います。
- 改易とは
- 改易!それは幕府を安定させる政策
という順で見ていきましょう。
改易と減封と転封の違い
についても、前半の章でお話しします。
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改易とは
改易(かいえき)とは、大名が現代でいう「リストラされる」ことです。
改易とは大名が
- 武士という身分ではなくなる
- 領地の没収
- 屋敷の没収
という制裁を受けることなのです。
江戸時代の統治システムは幕府が絶対的権力を持っていました。
藩の人事権も幕府が握っていたのです。
当時の藩組織は、大名以下の武士たちは家族のようなものでした。
藩のトップに君臨する大名の改易。
それは、その藩の武士全員が職を失う(リストラされる)ことを意味していました。
大名は「幕府が何を考えているか」「機嫌を損ねてしまわないか」考えなければいけなかったんですね。
改易と減封と転封の違い
ここで、改易と似ている言葉を見てみましょう。
♦改易と減封の違い
まず、改易と減封(げんぽう)の違いです。
改易では大名の領地が「没収」されて完全になくなります。
これに対し、減封では領地が「削減」されるに留まります。
※改易で完全に領地を没収された大名でも、その子孫がわずかな領地を与えてもらうことがありました。
♦転封とは
今度は転封(てんぽう)の意味です。
この転封とは、大名の領地を移動させることです。
豊臣秀吉の天下~徳川幕府の時代に行われました。
転封は、国替え(くにがえ)、移封(いほう)とも呼ばれます。
改易!それは幕府を安定させる政策
じつは、改易(かいえき)する側の幕府も大名たちの反乱を恐れていました。
改易が行われたのは、
関ヶ原の戦い~国内政治が安定するまで
という期間がメインです。
関ヶ原の戦いで徳川軍と敵対した大名の力を削ぎ、味方についた大名に大きな領地を与えたのです。
徳川幕府は自分たちの政権を万全にするために、相当な大名の入れ替えが必要だということを理解していました。
徳川幕府の権力を安定させるための改易です。
しかし、その改易は大名たちの反乱を招く大きな原因にもなります。
領主である大名が浪人(無職)にされるのですから当然です。
改易は慎重に
幕府側も、最大限の慎重さで改易を行いました。
大名が領地から江戸に出てきているタイミングを狙って
「改易とする!」
という通達を出すことも多かったようです。
大名が自分の本拠地を離れている状況では、その藩が反旗をひるがえすためのリーダーが不在なわけです。
改易に反対する勢力が、まとまるタイミングがないわけですね。
結果的に、徳川幕府は1度も大名に抵抗されることなく、改易政策を進めることができました。
盤石の徳川政権を作り上げていったのです。
戦国時代からの教訓
室町幕府が無力化した後、天下をほぼ手中にしていた織田信長は本能寺の変で去っていきました。
次に天下をとった豊臣家も秀頼の代で滅亡。
徳川家が天下を取ったといっても、もう一波乱をねらう大名は当然いたはずです。
徳川幕府はそんな大名たちから領地を取り上げました。
その領土は、幕府側の大名たちに振り分けたり、幕府の領土にしたりしました。
没収した石高が再分配されていきました。
この改易を行う中で、徳川幕府は自分たちの権力を着実に強めていったのです。