城・歴史

戦国の築城名人たち!4人を比べてみた

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先人が叡知(えいち)を結集して築いたお城。

お城は戦国時代から江戸時代にかけて一気に建てられていきました。

そのなかで城の高い防御性と品格を求め、築城の技術もまた、一気に進化を遂げるのです!

ここでは、そんな戦国の築城名人を4人、年代の古い方から紹介しようと思います。

三大築城名人として名高い

  • 藤堂高虎
  • 加藤清正
  • 黒田官兵衛

という名将たち。

この3人に加えて馬塲信春という、武田家に仕えた築城名人です。

それでは!

戦国の築城名人たちを見ていきましょう。

まず一番手となるのは、武田家の馬塲信春

この名人は、お城を堀で丸く囲んでいるんですよ。

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戦国の築城名人!馬場信春の城

戦国の三大築城名人たちよりも少し前の時期に、武田氏三代の主君に仕えた築城名人がいました。

武田信虎、信玄、勝頼を支えた戦国の築城名人馬塲信春(ばばのぶはる、1515~1575年)です。

武田家でナンバーワンの築城家として名を馳せました。

信春が才を発揮したのは

  • 城の建物の配置
  • 堀などの防御線を巡らせる

といった城の設計者としての役割です。

馬場信春が築城した田中城

戦国のさなか、築城名人の馬場信治が築いた城。

そのなかで、最も評価が高いのは田中城(静岡県藤枝市)です。

武田家の城の最高到達点と言われる城です。

◆丸い田中城

この田中城、本丸を城の中心に設置してお堀で丸く囲むという築城方法でした。

本丸を、丸いお堀で3重に囲んだのです。

お堀が円形であると、敵がどこからやって来ても対応が迅速にできました。

どこへでも、お城の中心から最短距離で守備に向かうことができたからです。

3重のお堀で囲われた田中城ですが、お城には出入り口が必要ですね。

この出入り口も、信春はしっかりとに守りを固めました。

城の出入り口の前にも、三日月形のお堀を設置したのです。

それは武田家の城の特徴でした。

武田家の城の特徴

武田家の城の特徴には、

三日月堀の設置

があります。

馬塲信春は、田中城にも6ヵ所に三日月堀を作りました。

これは、城内への敵の侵入を防ぐため、城の入り口の前に半円形(三日月形)の堀を作ることを言います。

下の写真のようなお堀です。

◆三日月堀の効果

三日月堀があると、お城の入り口に堀で囲まれた空間が生まれます。

この囲まれた空間にいる時、敵軍は動きにくくなります。

機動力を封じられた敵軍は、城の中からの攻撃をもろに受けてしまいます。

袋のネズミ状態となるのです。

戦国の築城名人!黒田官兵衛の城

次の戦国の築城名人は、黒田孝高(よしたか、1546~1604年)です。

通称は、黒田官兵衛(かんべえ)です。

官兵衛は海や川を見事に活かした城を築いています。

三角州の中津城

黒田官兵衛は豊臣秀吉の下、軍師として活躍。

九州を平定していくなかでの功績が認めらます。

現在の大分県中津市に領地をもらい、自分の居城として中津城を築城します。

この中津城、山国川(やまくにがわ)の三角州を利用して川の流れで城を囲みました

川の水を使って強固なお堀としたのです。

福岡城は堀の幅が50m!

黒田官兵衛は秀吉亡き後、関ヶ原の戦いで家康に貢献。

現在の福岡52万石の領地を誇る大名となります。

そこで築城したのが、福岡城(福岡県福岡市)です。

◆福岡城の特徴

福岡城の西側は海(玄海灘)に面しており、残りの3方を内堀で囲みました。

この内堀、なんと幅50mを超えたのだとか。

外堀には、東を流れる那珂川水を引き込みました。

城を囲む石垣も、複雑に入り組み、突破が難しい造りになっています。

本丸や天守閣に通じる入口(虎口)も厳重に構え、行く手を阻みます。

戦国の築城名人!加藤清正の城

戦国の築城名人として人気もトップクラス、加藤清正(かとうきよまさ、1562~1611年)です。

加藤清正の代表的な城といえば、何と言っても熊本城(熊本県熊本市)ですね。

熊本城は近代でも強かった!

築城名人、加藤清正の熊本城。

防御態勢がパーフェクトです。

その強い守備力は戦国を超え、近代でも通用しました。

明治10年、西郷隆盛率いる薩摩軍の攻略さえも凌いだのです。

清正の時代から300年にも迫る時を経てもなお、熊本城の石垣が薩摩軍の前に立ちはだかりました。

熊本城の石垣

熊本城の石垣は、見た目にも強く美しく下の方が緩やかな勾配となっています。

この石垣、上に行くほどに天にそびえ立つように角度が急になっているのです。

扇のような石垣の形は武者返しと呼ばれ、侵入者を寄せ付けることがありません。

熊本城の櫓門

熊本城は、長い直線が少ないことも強い防御力を実現しています。

角の多い通路が敵の行く手を阻むのです。

この通路を突破するためには、分厚い櫓門(やぐらもん)を突破しなければなりませんでした。


戦国の築城名人!藤堂高虎の城

戦国の築城名人、最後は藤堂高虎(1556~1630年)です。

主君を幾度となく代えた高虎は、74歳で亡くなるまで、多くの城を作った築城名人です。

この高虎の城には、

  • 高い石垣
  • 新しいタイプの天守閣

という注目点があります。

藤堂高虎の高い石垣

じつは、高虎が築城した城は、入り組んだ作りではありませんでした。

直線が多く、攻略しやすいように思えます。

ところが高虎は、高度な石垣技術によって堅固な城を作り上げていました。

高く積まれた石垣によって囲まれた城。

城の外からは城内の状態が分からないのです。

やがて高虎は、石垣の外側にある水堀の幅も広げるようになります。

◆上野城の高い石垣

下の画像は、高虎の築いた上野城(三重県伊賀市)です。

高い石垣(30m!)が城への侵入を拒んでいます。

「石垣が高すぎる・・・。」

「どうやって攻めたら良いのだ?」

そんな敵軍の声が聞こえてきそうです。

難攻不落な上野城の石垣は、現在でも雑草取りが大変!

自衛隊が訓練がてら行っているのだとか。

藤堂高虎の新しい天守閣

築城していくなか、藤堂高虎は新しい天守閣の作り方を開発しています。

それまでの望楼型に対して層塔型を作ってみせたのです。

◆望楼型の天守閣とは

お城の天守閣は、建物の最上階に物見やぐらを乗せていました。

物見やぐらを望楼(ぼうろう)と言い換えて、望楼型天守閣と呼ばれています。

建物の上に後付けで物見やぐらが乗った感じなので、構造が複雑でした。

◆高虎が開発した層塔型天守閣

そんななか、高虎はシンプルな天守閣を作り上げます。

それは、層塔型と呼ばれる天守閣です。

文字通り、下層階から最上部までが平らな層になっているのです。

高虎が開発した層塔型天守閣は工期が短く済むこともあり、その後の築城の手本となりました。

そして築城のスタンダードとなっていくのです。

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